オールスターブレイクも無事終了。
MEMからはライジングスターにJJJ、スキルズチャレンジにコンリーが出場した。
優勝やMVPには縁がなかったが、楽しめたら何よりである。
コンリーはこれが最後のオールスターウィークエンドにならないよう頑張ってほしいね。

オールスターブレイクで暇なのですずろにTwitterを見ていたら、MEMのHCであるJBビッカースタッフの記事があったので読んでみることにした。

実はあまりビッカースタッフを知っているわけではなく、初めて名前を聞いたのはHOU時代だろうか。
その後もフィズデイル解任後のMEMのHCとなったりとにかく臨時HCの印象が強い。
そんなビッカースタッフについてはMEMファンでもあまり詳しくない人が多いのではないだろうか。

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JBビッカースタッフは、NBAのHCになるという自身の夢がいつから始まったのか覚えている。
しかし、彼はその仕事が自分にとって最適なものなのかは確信がなかった。

彼は六歳の時、コーチという職業の表と裏—すなわち選手間の関係やローテーションのコントロールをしたり、フロントオフィスの規律やチームの短期目標と長期目標のやり繰りをしたりといったデリケートなバランス調整、そして不安定な雇用—について漠然と知ってはいた。
彼の父バーニー=ビッカースタッフはシアトル・スーパーソニックスのHCを務めており、彼の母は教師だったのだ。
彼は純粋に両親のようになりたいと思っていた。
JBはソニックスのボールボーイを務め、子供ながらにNBAのゲームに触れていた。
彼はデンバーの高校でバスケットをプレーし、大学ではオレゴンで2年、ミネソタで2年プレーした後2004年にシャーロットボブキャッツでコーチとしてのキャリアをスタートさせた。

「僕らは息子に自分の後を付いてこさせるように強制したことは一度もなかった。ただ誠実で正直な人間になってほしかった。息子の決断は彼がひとりで選んだ道だった。」
と父バーニーは語る。

「私は父をとても敬愛していて、大人になったら父のような人物になりたいと思っていただけだった。
年を重ねバスケットボールをプレーするにつれて、理解が深まり教えることの楽しさ、競争することの楽しさを実感していくんだ。
もし君がプレーできないのだとすれば、君のむずむずする渇望を最も満たしてくれるのはコーチングをすることだろう。」
とJBは語る。

昨年の5月にMEMはJBビッカースタッフを臨時HCから正式なHCとして迎えることを決定した。
そしてバーニーとJBはNBAの歴史上初めて親子でHCを務めたアフリカ系アメリカ人となった。
JBは自身のキャリアにおいて、機会の議論になれば常にオープンだった。
なぜなら父バーニーの時代は、チャンスがいつもあるわけではなかったからだ。
そして彼は父同様に、他のアフリカ系アメリカ人のコーチ達の道を切り開いていく役割についても意識している。

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「父は多くのチャンスを与えられたわけではなかった。
父は何度となく見過ごされ無視されて来たんだ。
それでも父は腐ることなく努力し、前に進み続けた」
とJBは語る。

父バーニーが初めてHCの仕事を得ることになるのは25歳の時だった。
サンディアゴの大学で2年プレーした後、当時のHCだったフィル=ウルパートが彼をアシスタントコーチとして雇った。
そこで3年アシスタントを務め1969年にHCへと就任した。
それは人生を変える機会だった。
彼はまだバスケットボールで食べていける自信があるわけではなかった。
1940年代~50年代をケンタッキー州で過ごし、60年代からはクリーブランドへ移り住んだバーニーは悪意ある人種差別と向き合わなければならなかった。
彼はサンディエゴの前にリオグランデの大学でもプレーしていたが、そこでもひどい人種差別を経験しすぐにクリーブランドへと戻ることになった。

「彼は素晴らしい人物で、それは彼の業績を見ても明らかだ。
でもそれだけで語りつくすことはできない。
私にとってコーチに出会ったことが人生の転機であり、それは単に私をACとして雇ってくれたことだけではなく、私のメンターであり恩人であった。」
とバーニーは当時のHCウルパートについて振り返る。

ウルパートはまだ当時黒人がコーチングの仕事をすることが一般的ではなかった時代にバーニーにアシスタントの仕事を任せた。
当時黒人のコーチは本当に数えるほどしかおらず、その数少ないコーチの中にはKCジョーンズやウィリアム=ロビンソンといったNBA殿堂入りしている人物達も含まれていた。
バーニーがこの時得たスキルは一生に渡って彼を支えることとなった。

「コーチングに関することだけではなく、トレーニング、予算、スケジューリングといったGMのような仕事も自分のキャリアを支えた。
全てのことをしなければならない。
予算やスケジューリング、シーズンチケットホルダーや遠征のことも。
これら全てにおいて信頼を得られれば、予算や財務について話す時でも別の次元で取り組むことができる。
それらの努力によって築かれる基礎が強固であれば、君は何の心配もない。
成功するためにはこれこそが必要だ」
とバーニーは語る。

1973年にKCジョーンズがキャピタル=バレッツ(のちのワシントン・ウィザーズ)のHCに任命されると、ジョーンズはバーニーをACとして雇った。
バーニーはウィザーズで12年間ACを務めたのち、1985年シアトル・スーパーソニックスのHCとなった。
その後もバーニーはナゲッツやボブキャッツでHC、ブレイザーズやレイカーズでACを経験した後、現在はクリーブランド・キャブズのシニアアドバイザーを務めている。

バーニーは息子JBにコーチングの道を強いることはなかったが、JBにとっては父の経験が大きな道しるべとなったことだろう。
バーニーはボブキャッツ時代にJBをACとして雇った。
JBにとっては初めてのビジネスの世界であった。

JBは父が経験したことを当たり前だとは感じていなかった。
彼は子供のころに父から聞かされた話を忘れはしない。

父の時代は街中を歩くと何が起こるか分からないため線路の上を歩いていたこと。
ホテルにチェックインする際に、前もってそのホテルが黒人の宿泊も受け入れているかを確認しなければならなかったこと。
人目につかないよう噴水などを避けたこと。


「過去の歴史を忘れないこと、そして一方でそれらがいかに短期間で変わることができるのかを忘れないこと。これらを確信することだ大事だ。」
とJBは強調する。

バーニーとJBは個々のコーチ哲学について語るとき多くの共通した核がある。
周囲の人たちへの誠意を持つこと、選手たちに対して正直であること、マイノリティーであるコーチに機会を与えることだ。
彼ら二人がコーチングに対しこれらの共通点を持つことに驚きはない。
JBはミネソタ時代のHCダン=モンソン、前ロケッツHCケビン=マクヘイル、前ウルブズHCランディー=ウイットマン、カート=ランビスら多くのHCから影響を受けてきた。
バーニーは自分の影響を控えめに語るが、言うまでもなく彼もまたJBに多くの影響を与えた。

バーニーはJBについて
「彼は良いことも悪いことも経験し、多くの選択をしてきたのだろう」
と語る。

「ある人のやることが全て自分に合うとは限らないというのはそうだろう。
でも人生においても、コーチングにおいても、誠実でありのままでなければならない。
カレッジであれNBAであれペテン師のコーチなどありえない、選手たちはしっかりと読み取るのだ。
もちろん君たちも例外ではない。
人は君が真実である時と、偽物である時をしっかりと読み取っているんだ。」
とJBは語る。

父から学んだ最も大きなことは、誰であっても選手全員に等しいリスペクトをもって接することだとJBは言う。
「ポジションなんて関係なく扱い方に差をつけてはいけない。等しいリスペクトと正直さで他人と付き合わなくてはならない」と

プレーオフレースから脱落しマーク=ガソルを放出することとなったMEMはチャレンジングなシーズンとなっている。
組織の目標はプレーオフを目指し勝つことではなく、トップ8プロテクトのかかった今年の1巡目指名権を確保することへとシフトした。

「彼は自分自身を保っているし強く立っている。必ずこのことが後に影響を与えるはずだ。
我々が働いているゲームは感情のジェットコースターのようなものだ。
48分もの間感情が揺さぶられているようなものと思ってもらえればよい。
自分自身に同情している暇なんてない。進んでいかなければならない」
バーニーは語る。

JBはシーズンのアップダウンやそれへの対応についても理解している。
この仕事は彼が子供時代から、いや大人になってからも夢見続けてきたもの以上のものだ。
まだ至らないこともあるだろう。
だが、彼が時間をかけ築いてきたものが彼の仕事の成果となって表れてくるはずだ。

「仲間との関係や自分以外の者のために思索することの報いは一日の終わりに得られるものだ。
今後の展望、組織、ファンのことを考えたり、メンフィスにおけるファンとチームの特別な関係を理解すること、それがより大きくなることは大事なことだ。」

それは他の黒人のコーチ達に機会を与えるという父の意思を受け継ぐJBの願いにも繋がるものだ。
バーニーのコーチの系譜は、GSWの現ACであるマイク=ブラウンにも受け継がれている。
JBがMEMで招集した初めてのACの中には、元NBAのスターであるジェリー=スタックハウスやニック=ヴァン=エクセルも含まれている。

JBは言う。
「父は自身の経験した苦しみから学び、他人に機会を与えることにオープンだった。
彼が父親であることは私にとっての誇りなんだ。
父の切り開いた道を辿り、そして私も自分の足跡を刻んでいくことを願う。」

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ビッカースタッフの人となりを知ることができる記事だったように思う。
彼のコーチ哲学は「誠意」である。
そして、その哲学の裏には彼や彼の父が苦しみながら築いてきた歴史があり、それゆえに一層強固で深みのある信念であるように思う。

GMは自球団の利益をより一層優先し、スター選手は公然とトレードを要求する現在のNBA。
そんなリーグにおいて最も誠意を持ちバスケットボールに取り組んでいるのはHC達ではないだろうか。
MEMは近年非常に難しい時期に来ている。
マークを放出し、今オフのコンリーの去就も不明とHCとしては中々頭が痛いところだろう。
シーズン序盤はGrit N Grind 2.0というスタイルは形になりつつあったし、そういう意味でHCとフロント、選手たちがかみ合っているように見えただけにファンとしても悔しさはある。
もしビッカースタッフと共に再建の道をたどるのであれば、彼が機会を与えたAC陣と若手選手が一丸となって成長する姿を見届けたいものだ。