今季MEMで活躍しデッドラインでLACへトレード移籍したギャレット=テンプルの記事があったので読んでみた。

32歳のベテランGテンプルはコート上の安定した活躍とコート外での社会問題への積極的な発信で知られる選手だ。

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1971年の秋、ルイジアナ州立大学学生ユニオンの前にある「言論の自由の道」と呼ばれる場所で、後のKKKの最高幹部デイビット=デュークがヘイトスピーチを始め、それはずっと続いた。
黒人やユダヤ教徒への蔑称を聞いたデュークのクラスメイトの1人は彼に立ち向かうために立ち上がった。
ルイジアナ州立大学バスケットボール部の最初の黒人選手であるコリンズ=テンプルは思慮深くデュークと議論し最終的には落ち着かせた。
またある時は人種差別主義、白人至上主義、ホロコースト否定者、あるいは他のヘイトをまき散らす人もいた。
しかし、コリンズ=テンプルは異なった肌の人たちがともに働くことで奇跡が起こるのだということを息子達に示す教育や団結の目的で試合を使った。

「若いころのデイビット=デュークは人種差別や黒人が大学でバスケットをプレーすることに強い反感を抱いていた。
しかし彼は自分の気持ちや信念を雄弁に語ることを恐れなかった。それが私の父だ。」
とコリンズ=テンプルの末の息子ギャレット=テンプルは語った。

NBAの話をすると、ギャレット=テンプルはロールプレーヤー、あるいはジャーニーマンと見なされていて、決してスターにはならないがどこのチームでも潤滑油として働く控えのG、3Pを沈めディフェンスを遂行する尊敬されるベテランプレーヤーである。
これこそが彼があらゆるチームで必要とされる理由であり、過去9年間に5度の10日間契約を結び、今季のデッドラインでMEMからLACへとトレードされた理由でもある。

しかし、彼の果たす役割や彼が行う旅行は必ずしもバスケットボールに関することに留まらない。
なぜならば、マイク=コンリー、ブラッドリー=ビール、ディアロン=フォックスに4Qまで休息を与えること以上に大きな責任を彼が持っているからだ。

数年前、ステファン=クラークという何の武装もしていない黒人が、携帯電話を銃だと勘違いしたサクラメントの警官に射殺された際、ギャレット=テンプルは抗議集会に出席した。
彼はサクラメントキングスのウォームアップウェアなどの公共広告にメッセージを示し、崩壊したコミュニティの修復を試み、そして遺族と同じくらい警察の話も聞いた。

先週、オールスターブレイクに入り多くのプレーヤーが休暇を取ろうとしている時、テンプルはクリッパーズのベンチを12:30に出発し、8:00にルイジアナ州の州都バトンルージュに到達するフライトへ向かった。

彼は家族が経営しているチャータースクール(公立の学校に入学を許可されたが取り残される生徒のための学校)の理事会に出席しようとしていた。

「一体どうやってこんなにすぐにここに着いたんだ?」とコリンズが息子に尋ねる。
「一睡もしていないよ」とギャレットが答えると父は頭を振ってうなずいた。

「若者がこのような献身を見せ、助けたいと思うことは本当にスぺシャルなことだ。でもギャレットはいつもそれをしている。」
彼には他の選択肢はなかった。

自分の出身の州にある最大の大学が、肌の色を理由に祖父の修士課程への進学を拒否するようなところだったことを想像してみよう。
ギャレットの祖父コリンズSrは修士号を取るためには学校を変えなければならなかった。
その学校の校長と組織はキャンパスに教育された黒人がいることで起きうることに対して恐れており祖父を受け入れなかったのだ。


「学校に進むのと何年も訴訟を経験するのとどっちがよい」などと言われていた父のことをコリンズは思い出す。
「父は”自分はただ修士課程に興味があるだけなのに”と感じているように自分には見えた。」
とコリンズは当時を思い返す。

そんなギャレットの祖父コリンズSrは学長になり、ルイジアナ出身の学生と恋に落ちた。
彼女がギャレットの祖母であった。
彼らの息子コリンズJrはバスケットとアメフトに秀でていた。
ルイジアナ州が統合されたとき、白人の子と初めて学校に行った。
(映画にもなった)タイタンズよりも前に、彼とスターQBだったジェイミー=スピアーズ(ブリトニー=スピアーズの父)は人種の入り混じったチームで無敗のシーズンを達成し州のタイトルに導いた。

そして、ルイジアナ州立大がコリンズSrとの関係を断ち切ることを試みてから20年後、ルイジアナ州の知事はコリンズSrの家にやって来て、コリンズJrがルイジアナ州立大に入る最初のアフリカ系アメリカ人になることについて考えてほしいと伝えたのだ。
知事はギャレットの祖父を拒絶したルイジアナ州立大の人種差別を撤廃する先駆者としてギャレットの父を指名したのだった。

「本気か?クレイジーだ」
それは現実離れした出来事だった。

そして、このことはギャレット=テンプルが選手会の副会長を務め、銃による悲劇が起こった時双方の意見に等しく向き合うべくコミュニティと警察と両方と会って話を聞いた下地となっている。
双方の傷を癒し和解へと導くべくギャレットは行動する、なぜなら彼のラストネームはテンプルなのだから。
彼は父親や彼が10歳の時に亡くなった祖父からこのことを学んで成長してきたのだ。

テンプルの祖父母コリンズSrとシャーリーはミシシッピ州とルイジアナ州の境にある辺鄙な街ケントウッドに住んでいた。
彼らは結婚後フルタイムの教師となった。
シャーリーは英語の学位と人文学、生活指導の修士号を取り英語の教師そしてカウンセラーとなった。
コリンズはルイジアナ州初の黒人だけの高校の校長となった。

南部地域における変化は遅々として進まない。
人種の垣根をなくすことは受け入れられなかった。
しかし、彼らの息子が大学のスター選手になるころにはようやく人種の統合が進んだ。
「もしこの出来事を映画化するなら、タイタンズ(「タイタンズを忘れない」)だね。80%くらいは僕と彼に当てはまっているよ」
コリンズJrは盟友スピアーズとの関係について語った。

コリンズJrはバスケットとフットボールの両方でいくつかの大学から熱心なリクルートを受けた。
ネブラスカ大、カンザス大、コロラド大も含まれていた。
彼はルイジアナ州出身のエルビン=ヘイズの母校という理由で南カリフォルニア大学も訪れた。
人種的な理由で父親を追い出したルイジアナ州立大は彼の心から最も遠い大学だったが、人種問題解決のパイオニアとして彼を求めていた。

彼の論理はシンプルだった。
「ルイジアナ州に住む黒人は税金を払っている、それはルイジアナ州立大がこの州で最高の大学であるためにお金を払っているということだ。」

ルイジアナ州立大というコリンズの決断は家族の意見の対立を生んだ。
ルイジアナ州立大の卒業を控えていたコリンズの姉ブレンダは、予想される中傷や不愉快な出来事を弟には経験してほしくなかったのだ。

彼女はルイジアナ州立大のリクルーティングの場に常に同席した。
ルイジアナ州立大のコーチでありスター選手ピート=マラヴィッチの父であるプレス=マラヴィッチが、コリンズの大学生活がどれほど楽しいものになるかを語ってコリンズを喜ばそうとしようものなら彼女は大学内で他の黒人達が経験している酷い物事について語るつもりでいた。

「一緒に登校していた黒人の友人がの何人かはルイジアナ州立大の大学生活で精神を壊してキャンパスから姿を消した。」とブレンダは言った。
ブレンダは自身とコリンズが頑固な両親に強い規律を埋め込まれて育てられたことを知っていた。
「コリンズは自分から何かを起こすタイプじゃなかった。大学の歴史上初の黒人選手になるという重圧が彼を押しつぶしてしまうことを私は恐れていた。」
とブレンダは語る。

「私がルイジアナ州立大とサインをしたとき彼女は泣いていた。彼女は私にこの先のことを経験してほしくなかったんだ」
とコリンズは思い返す。

そして、コリンズの息子たちの頃には、そういった不安や傷跡は消えていた。
「彼はこの問題に取り組むのに十分な精神的な強さを持っていた。彼は他人の進む道を築いた。」
とブレンダは語る。

コリンズJrは66才になるがまだ働いている。
発達障害、精神的な病、未成年など様々な人のためのグループホームを25ほど運営している。
また、彼は未だにジェイミー=スピアーズとの交流を続けている。
スピアーズの長女と一緒に池で釣りをして、ナマズをバケツ一杯に捕まえて揚げたこともあった。
「ブリトニーは釣りが得意だったんだ」
「彼女は釣りが大好きだったね」

コリンズの息子ギャレットもまたルイジアナ州立大へと進んだ。
その頃には大学の傷はもうなくなっていた。
ギャレットの決断の一部はAAU時代のチームメイト、ビッグベイビーことグレン=デイビスがいたことも関係していた。
高校時代に彼ら2人はとても親密になり、デイビスはテンプルの家に転がり込んだ。
デイビスの母親は彼を放棄していた。
彼ら2人は兄弟以上の間柄になった、デイビスが10年前に孤児のための基金を設立したことも当然のことであった。
デイビスはNBAで8年プレーした、残念ながら彼はNBAから離れると2018年に法を犯し逮捕されてしまったが。

「誰かが君に、そして君が誰かへ、そしてその誰かがまた別の誰かへと受け継いでいく。ギャレットは私から、私は両親から多くを学んだ。そして私は彼をこの上なく誇りに思っている。彼は人生について心得ているんだ」
とコリンズは息子ギャレットについて語る。

テンプル一家は祖父母の代でケントウッドを去り1996年にバトンルージュへ引っ越した。
コリンズSrは1996年に、シャーリーは2005年にこの世を去った。
しかし、ケントウッドの一角に彼らはまだ生き続けている。
コリンズ、ギャレットと兄弟達は1911年に建てられた記念碑を購入した。
また、ギャレットはかつて祖父が黒人の子供たちを教えていたホールで今夏バスケットボールキャンプを開催した。

冒頭の話題に戻り、クラークの死によって起こされた人種問題が沸騰する大釜の中にギャレットはいた。
抗議者達は試合会場の入り口を封鎖したことが二回あり、その内の一試合ではキングスはわずかな観客の前で試合をしなければならなかった。
ギャレットはキングスがBLM(黒人差別批判)のパートナーとなることに貢献した。
しかし、それ以上に彼は町全体を見て、警察官と黒人のコミュニティの壁を取り除くことを試みた。

「人々がそれらの根源にあるもの、アフリカ系アメリカ人と警察の歴史やそれらが時を経てどのように発展してきたのかということに目を向けることができればと思う。
非武装の黒人を殺した警官の全員が人種差別主義者だとは私は思わない。
それらの多くは社会に根深くしみついた怖れや偏見からくるものなのだと思う。
その怖れは、メディアや映画、ニュースが植え付けた黒人のイメージから来ているのだ。」
ギャレットは続ける。

「私は何人かの警官とこの種のシチュエーションでどのように行動するかについて実際に話した、彼らはアメリカの中でも最も困難な職業、毎日自分の命をさらした仕事をしているのだ。
『銃が見えなかったら、相手はどうやって銃を撃てるというんだい』と彼らに尋ねた。
『銃が見えてからでは遅すぎるんだ。自分の命が取られるだろう』と彼らは答えた。
私はまだ怖れを弱めることができると思っている、その怖れは社会全体の黒人に対する洗脳された暗黙の偏見から来ているものなのだ。」

テンプルは言葉を止め、次に発する言葉を慎重に選んだ。
「自身のバックグラウンドが放ってはおかなかった。私はアスリートでこうして意見を発する機会を持っている。
何人もの人に届くかもしれない言葉があるならば使うべきだ。
もし届けられるべきなのに届いていないメッセージがあるのだと感じたなら、その声を発しなければならない。」

「私がメンフィスにトレードされた時初めにしたことは、キング牧師が撃たれた場所を訪れることだった。その時の感情をうまく伝えることはできないが、私が他人のために行動する原動力を感じ取った。
私はあと4年はプレーしたいけれど、自分にできる方法で世界のあり方を変えていきたいとも思っている。」

(あとがき)
最後にメンフィスのロッカールームでのオムリ=カスピとのいざこざの真相についても聞いてみようと思っていたが、彼がこの後黒人歴史月間の集会に出席し、NBAでスタメン陣を休ませることよりも大事な役目を持っていることを知ったのでこんなちんけな質問はやめにしよう。

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テンプルが10日間契約から這い上がってきた苦労人であり、社会問題について積極的に行動する選手であることは僕も知っていた。
しかし、それ以上のもの、彼や彼の家族が受け継いできたものも知ることができた。
テンプルはMEMを去ってしまったけど、自分の応援しているチームにこういう選手がいたことは誇らしくもある。
コート外や引退後も含めて今後のテンプルの活躍を応援していきたい。